『海老名弾正』

今回は幕末に生まれ、明治期に活躍、昭和12年に没したクリスチャン・牧師の海老名弾正(えびなだんじょう1856-1937)を紹介します☆

管理人Nの私が海老名を知ったのはお恥ずかしながらつい先日、横井小楠を読んだときでした。

吉川弘文館から出ている横井小楠を読むと、わずかに海老名に触れている箇所があります。小楠自身もキリスト教に非常に理解を示し、そのため日本に異教を推進する奸物と誤解されてしまったほどです。

なお、海老名は明治15年(1882年)小楠の長女みや子と結婚しています(Wikipedia)。

さて、一読してみると、予想をはるかに超え、格調高く、清く、高潔で、美しい言論、人格に出会うことができます。

私自身、これまで過去の複数のキリスト教関連の文献や著作に当たってきましたが、これほどすっきりと格調高く、高潔かつ美しい言論に出会ったのは、この海老名が一番というほどの感慨と印象を受けました。アウグスティヌスの著作に触れた時よりも、あるいは内村鑑三の著作に触れた時よりも、ほかには、岩下壮一氏の『カトリックの信仰』に触れた時に比べても、これらの著作には個人的にはそこまで衝撃はうけなかったけれども、この海老名弾正先生の言葉にはどこまでも霊感溢れ、心打ち、胸打つものを感じました。

ここで少し、この一冊の性格と海老名弾正が当時どのように見られていたかという部分を、紹介がてら「解説」から引用してみたいと思います。

「私が、これまでに収集した海老名弾正の説教は、三百数十篇におよぶ。これは実にこの説教集の約二〇冊分にあたる量である。試行錯誤の末にやっと一八篇を選んだ。ここに収録した説教は、『新女界』から九篇、『新人』から八篇、『基督教世界』から一篇となった。これらの説教がなされたのは、時代的には、一九〇三年から一九一八年の一五年間のものであり、この時期は海老名が本郷教会(現・弓町本郷教会)牧師時代にあたり、年齢的にも四七~六二歳の円熟期のものである。
木下尚江は『荒野』のなかでこの時代の海老名を描写して「日清戦争後、諸教会何れも依稀(いき)不振を嘆いて居るなかに蹶起し、大声疾呼(しっこ)、忽ちに社会の耳目を聳動(しょうどう)して、爾来(じらい)十年日露戦争時に至るまで、耶蘇(やそ)教と言えば、世人をして殆ど海老名弾正の独舞台の如く思はせた」と記している。
海老名は、この時代本郷教会で多い時には五百~六百人の会衆に対して説教をした。説教の時間も一時間から一時間半におよぶ長いものであった。かれの説教は、海老名が創刊し主筆や主幹であった『新人』と姉妹誌『新女界』に掲載された。」

「海老名は、前もって原稿を用意して読み上げるタイプの説教をしなかった。外国で行った英語説教の原稿は残っているが、かれが全文を記した説教の原稿は見当たらない。ここで収録した一八篇の説教も、全て筆記者によるものである。」

今回の一冊と海老名弾正の当時の様子が多少なりとも分かっていただけたかと思います。

では、この海老名弾正の説教がどのようなものであったか、この一冊には随所に心を打つものがちりばめられていますが、わずかに引用し、今回、紹介とし、読者の皆さんの心の糧に提供したいと思います。

「我々の心の中には深い貴いものがある。その愛する子のためならば、その命を棄つるとも敢て恨みとしない痛列なる力がある。我らはこの力によって励まされんとする。十字架の力とはこの活ける心内の力を意味する。世にこれより強き力があろうか、断じてない。力の本源は愛であり、愛は即ち神である。我らはこの神によって立たねばならぬ。ああ父よとよんで我らはこれにあこがれねばならない。その姿のさやかに我らが心頭に浮び来るまでは、人は熱烈なる衷なる叫びを休止せぬであろう。我らはこの父母の心を握らねばならぬ。神と共に左右する浩々(こうこう)の神念を握らねばならぬ。この信念を有するものにして初めてキリスト教の真義を談ずることが出来る。この心を有するものはひとり一個の父一個の母となるのではない。千人二千人否な一万人二万人に限らない、普く人類の親となり、世界の親となることが出来るのである。万世の真理はただ一語に尽く、日く「父母の心」である。キリストが我らに示し給いし福音は、「父よ」と叫ぶ愛の福音である。これを除いて天下に福音はない。」

「キリスト教は活けるただ一つの神を信ずる。しかして、この世に遣されし救主イエス・キリストを信ずる。キリスト教は人格教である。しかし神は血あり肉ある者なりとは言わない。ただ「我を見し者は我父をも見しなり」と宣(のたま)いし、イエス・キリストの真なるを信じるのである。その証拠は何であるか。「愛の神」である。我らは神を愛するのである。キリストを愛するのである。」

「クリスチャンとして大切なことは、その手にその足に、その顔に、その胸に、活けるキリストを実現することである。これには多大な努力と修養とを要する。しかしこの時に、夫婦の関係、父子の関係、兄弟の関係、朋友の関係、ことごとく浄くなるのである。見るもの聞くも の、ありとあらゆる自然はことごとく美と感謝に輝くのである。クリスチャンの情操とは、畢竟(ひっきょう)するに活けるキリストを実現することで私はこの美しき生活をすべての人に薦めざるを得ないのである。」

いかがでしょうか。

私には、これらの言葉が、キリスト教の神髄を短い言葉で大変美しく輝かしく表現したもののように映ります。

多くの人に、美しい心でもって世界を見てほしいし、そうした心で日々を生きてほしいと思ってしまいます。

皆さんもぜひ、どこかで海老名の言葉に触れ、内なる美しさを見出してみてはいかがでしょうか^^

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