『佐久間象山』 大平喜間多 著

今回は、みなさんも学校の教科書で学んで名前くらいは覚えているかもしれません。佐久間象山(さくましょうざん)を紹介します。

象山は、1811年、松代藩(まつしろはん・現長野県)に生まれ、1864年、53歳に京都で暗殺された人物です。

一読してみると、象山は洋書を読み、西洋医学を実際に試し、科学機器・兵器などもみずから実地に作成を試みるなど、言わば想定外のことを成してしまう驚くべき開明性を持った人物であったということがわかります。吉田松陰・勝海舟らも象山の門弟となり、砲術を学ぶ等しましたが、この事実一つとっても実に驚くべきことです。松陰、勝にも大いに影響を与えたと思われます。

少し話はそれますが、龍馬に大き影響を与えた勝海舟の開明性も、この佐久間象山に追うところも多いのだろうと考えてみると、天下に国を思う憂国の心、かくして人から人へ、逸材から逸材へと受け継がれるかの感を覚え、実に感慨深いものがあります。

しかしもちろん、象山の開明性も、これもまた開明的松代藩藩主の真田幸貫(さなだゆきつら)に負うところも少なからずというところもあります。

一種の天才性を思わせるものがあるこの佐久間象山ですが、当時の大儒、佐藤一斎(さとういっさい)にも学びました。象山は朱子学を大いに尊ぶところがあり、実は陽明学に傾倒する一斎とは相いれないところがありましたが、一斎にも大いに認められ、山田方谷(やまだほうこく)と並んで佐門の二傑と称されるほど、学も超一級だったようです。現在でいえば、東大の有名教授に認められるというように例えれば、大げさすぎるかもしれませんが分かりやすいでしょう。

そして、ただ学問にとどまらず、最初に実学の方面にも非常に卓抜していたことを書きましたが、海防についても幕府へ大いに献策します。当時、ペリーが浦賀に現れ、確たる外交指針を持ちえなかった幕府に明確な指針を与えたのもこれまた象山です。

晩年、尊攘運動に騒然とする京都に上ったのちには、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)にも面会を求められ、また朝廷においては青蓮院宮朝彦親王にも「その方のように利害得失を明確に説明してくれた者はこれまでなかったと」と絶賛されます。このように公武ともに大いに声望高まる象山でしたが、洋物を軽々しく国内にもたらす存在として危険視され、尊攘運動の中に暗殺、惜しくも倒れることとなりました。

管理人N、お恥ずかしながら、佐久間象山につて真剣に学んだのはこれが初めてでしたが、一読し、非常な逸材と深く感じてしまいました。今さらではありますが、しかし、初めてだからこそ、その驚きをよく伝えることができるとも思い、ブログにて皆さんに紹介するにはいい機会とも思う次第です。

幕末維新という時代を語るに、もし象山を言わねば、語るに落ちたり。そんな風にもついつい思ってしまいます。

皆さんもぜひ一度象山を学んでみてはいかがでしょうか。必ずや啓発される所多いことと思います^^

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