プラトンの『饗宴』よりディオティマの話を。愛について。

久しぶりの投稿になってしまいましたが、今回はプラトンの『饗宴』より、愛に関する部分を紹介してみたいと思います☆

私、管理人Nがプラトンに親しんだのは主に学生時代から社会人初期のころです。

プラトンその人について知らない人のために少し説明すれば、プラトンは紀元前の古代ギリシャの哲学者です。前399年に師のソクラテスが毒杯を仰ぎ、またプラトンの学園アカデメイアには若きアリストテレスが学んでいました。そして古代世界を席巻するマケドニアのアレクサンドロス大王の家庭教師をアリストテレスが務めていたという歴史があります。

ちなみにソクラテスについては、彼は書物を一冊も書かなかったと言われ、彼のことを知るにはプラトンが残した著作やクセノフォンの著作、あるいは当時の喜劇作家アリストファネスの作品などからわずかに知られるという具合です。

プラトンの初期著作群はほぼソクラテスと誰かの対話編になっており、今回紹介するのもそうした一部分になります。

私が親しくプラトンを学んでいたころからは少し時間がたってしまったこともあり、体系立てて記事を組み立てることは難しく面倒なこともあるため、今回は紹介したい部分だけをシンプルに伝え、皆さんにプラトンに接してみたいと思っていただければとても嬉しく思います。

さて、「エロス」という言葉があります。今ではあまりいい響きを持っていませんが、古代ギリシャでは
神々の一人として考えられていました。そして、この『饗宴』に出てくる人物アガトンの言葉によれば、「すべてのうちでもっとも美しく、もっとも優れており、したがってまたもっとも福(さいわい)なる神である」とのこと。それから、「神々の世界も美しきものに対する愛によってその秩序を保っている」のであり、ソクラテスの言葉によると「エロスは美に対する愛」という風に書かれています。

こうしたエロスに関する話が『饗宴』には出てくるのですが、その直後に続いている部分で、ソクラテスが、ディオティマというマンティネイヤの婦人から聞いた(諭された)という話がとても印象深く、学生時代にプラトンに出会った昔から、今もなお私の心に余韻を残しています。

これを今回は、少し長くなりますが、引用・紹介したいと思います。

 
彼女はまた僕(ソクラテス)にも愛の事を教えてくれたのだった。実は僕も、今アガトンが僕にいったのとほとんど同じ事を彼女に語ったのだった、すなわちエロスは偉大な神でかつ美しき者に対する愛である、と。すると、彼女は、僕が今この人を反駁したのとまったく同じ理由をもって、すなわちエロスは、僕自身の言葉によると、美しくもなければ善くもないことになるといって、僕を反駁したのだった。

「どういうおつもりですか、ディオティマ、ではエロスは醜くて悪いというのですか、」

と僕は反問した。
すると彼女は応酬した。

「罰当りをいうものではありません。それとも責方は、美しくないものは醜いにきまっているとでもお思いなのですか。」

「勿論です」

「それからまた智慧のないものは無知なのですか。それとも貴方は、智慧と無知との間には一種の中間物が在ることに気付かないのですか。」

「ではそれは何でしょうか。」

正しき意見を抱いていて、その根拠を示すことができぬのは(と彼女はいった)、それは知識でもなければ(なぜといって、根拠を示されぬ事がどうして知識であり得ましょう?)、無知でもない(なぜといって、真実に一致するものが、とうして無知であり得ましょう?)ということを貴方は御存知ないのですか。こういう訳ですから、正しき意見とは明かに智見と無知との中間に位するようなものというべきでしょう。」

「御言葉の通りです、」と私は対えた。

「それでは、美しくないものは必然的に醜いとか、善くないものもまた同様に悪いとかいう風に考えてはいけません。エロスの場合も同様です。あなたは、エロスは善くもなければ美しくもないことを自分で認容なすったのですが、それだからといってこの神を醜くかつ悪しき者でなければならぬと考えてもいけません、彼はむしろ両者の間の中位を占めているのです。」

「それでもやっばり万人は皆、エロスが偉大な神であることを認めていますよ。」

「その万人というのは無識者のことなのですか。それとる識者もこめてのつもりですか。」

「勿論一切の人のことです。」

すると彼女は笑い出していった。

「でも、ソクラテスよ、エロスが神であることをすら容認しない人達が、どうして彼を偉大な神として認めるはずがありましょう」

「その人達とは誰のことですか、」と私は訊いた。

「その一人は貴方で、もう一人は私。」

そこで私はふたたび尋ねた。

「それはどういう意味ですか。」

「すぐわかるじゃありませんか、」

と彼女はいう。

「まあいって御覧なさい。貴方は、すべての神は幸福で美しいとは考えませんか。それとも神々のうちでもある神は美しくもなければ、福(さいわい)でもないと主張するほどの勇気がおありですか。」

「ゼウスの神かけて、私には勿論ありません、」と私は答えた。

「でも貴方が福(さいわい)だというのは、善いものや美しいものを所有する者ではありませんか。」

「無論です。」

「だって貴方は認容なすったではありませんか、エロスは、善いものや美しいものを欠いていればこそ、正にその欠いているものを欲求するのだ、と。」

「実際認容しましたよ。」

では美しいものにも、善いものにも全然与からぬ者がどうして神であるはずがありましょう

「けっしてそんなはずはないように思われます。」

それ御覧なさい、貴方もエロスを神だとは思っていないのでしょう?」と彼女はいった。

「では エロスとはいったい何でしょう?滅ぶべき者なのですか、」と私は訊いた。

「けっしてそんなことはありません。」

「ではいったい何ですか。」

さっきもいったように、減ぶべき者と減びざる者との中間に在る者なのです。」

「では何ですか、ディオティマよ。」

「偉大な神霊(ダイモーン)なのです、ソクラテスよ。なぜなら、すべて神霊的な者は神的な者と滅ぶべき者との中間に在るからです。」

「ではどんな能力を持っているのです?」と私は聞いた。

「それは、人間から出たことを神々へ、また神々から来たことを人間へ通訳しかつ伝達するのです。すなわち一方からは祈願と犠牲とを、他方からは命令と報償とを、それはまた両者の中間に介在してその間隙を充たします。その結果万有は結合されて完き統一体となるのです。

 
さて、いかがでしょうか?

少し丁寧に読んでみると、哲学書とはいえ、古代のプラトンの著作が意外に分かりやすことに気が付くことと思います。

そして、この部分、プラトンの別の著作『国家』にあるような洞窟の比喩、すなわち私たちは洞窟の中の影しか見ておらず、外に燦然と輝く太陽を見ていないという話や、いわゆるプラトンのイデア論、「美そのもの」「善そのもの」といった話とも通ずるものを感じるのは私だけでしょうか。

私たちの中には、私たちが生まれてきた始原への、美への、光への、飽くなき憧れ、情熱、愛があります。

皆さんも、プラトンをもその一つの頼りに、その美を、光を、輝きを、情熱を、愛を、探す旅に出かけてみてはいかがでしょうか。

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