プラトンの『パイドロス』より。ダイモーンについて。

心打つ美しき物語、プラトンの『パイドロス』から、今回はソクラテスのダイモーンについて少し紹介し、記事にしたいと思います。

「ソクラテスは青年たちを腐敗させる廉(かど)で、かつまた国の信仰する神々ではなくて別の新奇なダイモニアなるものを信仰する廉で罪人である」

『ソクラテスの弁明』(門川ソフィア文庫)によれば、古代ギリシャのアテネにおいて、こうした罪でソクラテスは法廷へと引き出されました。

当時のことをもっと詳しく学べば、これは一種の口実であり、根は政治的なものを含めてもっと深かったようだということが察せられてくるのですが、それはさておき、こうしてソクラテスは法廷へと引き出されたわけです。

さて、問題のダイモーンですが、このダイモーンとは一種の神霊のことを指します。そして、このダイモーンはどのようにソクラテスに現れたのでしょうか。

『パイドロス』においてもそれは現れ、登場人物でもあり対話相手のパイドロスとの話の途中で、以下のようにソクラテス自身が語っています。

ぼくがまさに川をわたって向うへ行とうとしていたときにね、よき友よ、ダイモーンの合図、いつもよくぼくをおとずれるあの合図が、あらわれたのだ。それはいつでも、何かしようとするときにぼくをひきとめるのだが。そして、そとからある声が聞えて、ぼくがなんと、神聖なものに対して何か罪を犯しているから、自らその罪を浄めるまでは、ここをたちさることはならぬと、こうぼくに命じたように思えた。」

また、『ソクラテスの弁明』では、次のようにも表現されています。

「私には例のダイモニオンの予言がこれまでの全期間においては、もし私が何かまずいことをしようとすると、まったく些細なことの場合にも、反対しながら非常にたびたび生ずるのが常だった。

このように、「何かをせよ」という積極的なかかわりかたではなく、「してはならない」あるいはこれに類似の場合にサインを示すのがダイモーンの常であったといいます。

このダイモーンの話を皆さんはどのように感じるでしょうか。

他愛もない、紀元前に語られた昔話と思うでしょうか。

しかし、ここで私、管理人Nは、ごくごく一般の本ブログの読者の方に向けて、半分謎かけでもするような、そんな気持ちで本記事を書いてみたいと思っています。

守護霊という言葉があり、誰にも必ずその守護霊がついていると言われることがあります。

現代人は半ば冗談にも感じてしまうかもしれませんが、ダイモーンでもあり守護霊でもあるその存在は、人生のところどころで、ソクラテスに成したようなサインを、私たちに示してくれます。

それは引っ越しや、事業や、就職や、火遊びをしたい気持ちが出てきたりした時や、危険なことをしようとしている時、あるいは結婚や恋愛での時かもしれません。ある選択をしようとする時に、事件が頻発したり、なぜかうまくいかないということがあります。逆に、まるで祝福されているかの如く、困難な前途に、道が開けていくことがあります。

古代ギリシャから少し時代は下りますが、上方を見つめ、光を見つめるようなアウグスティヌスの絵画があります。ボッティチェリやフィリップ・ド・シャンパーニュによる絵画ですが、彼らによるアウグスティヌスの絵には、神の前に敬虔であり、神の恩寵のもとに生きる幸福と美しさが描かれているように思います。

現代人、こと日本人は特に選び忘れているもう一つの生き方、それは神道的な神の前の生き方であってもいいし、仏教的な仏の慈悲・慈愛のもとでの生き方でもいいでしょう。

宗教的な、敬虔で、透明な生き方をする時に、私には、このダイモーンのサインを感じつつ祝福された人生を送ることができるように思えます。

皆さんも、心を研ぎ澄まし、美しき心でもって、新たに見えてくる世界を、探求してみてはいかがでしょうか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です